昭和の高度成長期に産まれた女の子が二十歳で母になり平成の激動の時代、そして令和は?

令和元年五月一日からポジティブ心理学・ビューティーカウンセリングを化粧品代理店と合わせてやる事を決断しました。それに合わせて縁(えにし)でしょうか?在宅ワークの話しもありとても楽しみながらやっています。簡易的にあたしの生い立ちから現在までをご紹介します。

 

〜幼少期〜

トイレットペーパー沢山買いに走りませんでしたか?昭和のとても良い時代、高度成長期真っ只中。東京オリンピックの年にあたしは母のお腹に宿りました。東京の外れこの世に生を受けたのは、翌年の四月三十日です。昭和天皇のお誕生日の次の日ですね。オリンピックの次の年の昭和天皇のお誕生日の次の日。考えてみるといつも次なのですね。母は、八人も兄弟のいる旧家の出身。父は、10人も兄弟のいる農家の出身。要するにそんなに必要ではない生まれですよね。それに加えて母は、上から三番目父は、下から二番。あたしは、長女が生後1週間で亡くなったので産まれて来た一人娘でした。一人娘なのに次女です。何故か次なのですね〜。幼少期は、日舞を習わされ紳士服のお店を両親はやってました。母の実家は、別荘が立ち並び当時は静養に行く湖畔のほとりで親族がみんな民宿をしていました。勿論今でも叔父や従兄弟、母のいとこなどが数十の民宿をしてます。

一人娘の為、日舞の師匠にならせようと両親は思っていたのでしょう。学校へは、行かなくてもお稽古は休ませてもらえませんでした。

あたしは、バレエやピアノが習いたかったのですがね。まぁ、身体もあまり強くなかったので余計だったのでしょうが、この頃の一番の印象は入院した時出てきた、りんごを温めたオヤツ最高にまずかったです。

10歳からが大変な幕開けとなります。

お店をやっていたので、すぐ下の妹である叔母の家に土日祝日、そして春、夏、冬休みは母の実家へ預けられる日々でした。

そんなある日の事です。小学四年でしたが、学校からお店へ帰るとはじめてシャッターが閉まっていたのです。この日が一生忘れられない日となるとも知らずに自宅へ帰りました。

そこにいたのは、母とすぐ下の妹の叔母が着物を出して向き合って話をしていました。テレビを観ているよう促され、なぜお店が閉まっているかとも聞かずテレビを観てました。

深刻な話しをしていたのでしょうが二人がいたので気にもならず、夕方の子供チャンネル「みつばちマーヤ」を観ていると叔母がいつの間にか帰り、母は買い物へ行って来ると言ったまま夜になっても戻っても来なかったのです。

お腹が空いて何もなく缶切りも見つからず、果物ナイフで何か果物の缶詰を開けようとした事を鮮明に覚えています。八時過ぎでしょうか?母から電話があり、タンスに10000円があるからと言われてそれを持って犬と猫を飼っていたのですが、猫が帰って来なかったのでマルチーズを抱いて母の友達の家にタクシーで向かうことになりました。しかし、車内か道にお金を落としてしまい、大泉学園の駅からそのお宅へお金と一緒にあった紙に書いてある電話番号に電話をして迎えに来てもらいました。そうです、父と母は、オイルショックで商売に失敗したのです。おぼっちゃまとお嬢様の親からもらったお金ではじめたからでしょう。子供置いて逃げたのですよ。

少し飛ばしますがそこには2週間程お世話になり大嫌いな叔母夫婦が迎えに来て、そこにいる時はとても嫌な思いをしました。未だに好きになれません。「私は、いると迷惑だから施設に入れてくださいと交番へ行って言いなさい。」とかやたらと言われました。今ならDVですよね!

そして、一旦母の実家へ行き母のすぐ下の妹の叔母の家に引き取られたのです。そこには、二歳違いの従兄弟が居たので兄弟同然に育ててもらいましたがまた、色々な事が始まるのです。

 

〜思春期〜

小学生高学年の時、母から電話連絡は良く来てましたが私は出たくなかったので弟同然の従兄弟が、「おばちゃん僕が代わりにお話しするからね。」と良く電話に出てくれてました。その後母は再生不良貧血という不治の病になり、あの後どうしていたかは、分かりませんが広島に両親は住んでいて、叔母に連れられて新幹線で広島の病院を訪ねました。そこに残るように言われましたが、広島の原爆ドームのイメージと散々身内に親の悪口を聞かされていた私はそれを拒みました。病気もあり二人は東京へ戻って来たのです。中学入学を気に両親の元へ戻るのですが、反抗期も重なり家出をして施設へという話になりました。児童相談所へ数ヶ月滞在して色々な子供を見ました。世の中は、酷すぎるとそこで大きな社会勉強をさせられました。あざだらけの虐待の子。子供が多すぎるから要らないと言われた花子ちゃんと言う名前の子。お父さんが目の前で逮捕された子。本当にショッキングな話ばかりでした。そこで私は普通なのでと感じるのです。それも、空きがなく二週間小さな子がいる方に滞在していたので、先生達を手伝いながら過ごしたと言う貴重な経験もしたので、とても私の人間形成に変化をもたらしたと思います。本当に高度成長期の表裏を体験しました。本当に不思議な体験ばかりでなぜ?という疑問は、いまだに続いているのです。

そんな事などがあり、結局施設へ入所はせず母の一番下の妹夫婦の千葉の家に引き取られて行く事になるのです。この頃は、反抗しても大人のなすがままですよね。この時覚えたのは、居住権は、十五歳にならないともらえないという事です。早すぎますよね。そんな情報。

とにかく、あたしは東京へ帰りたくて都立の高校は受験をしたいと言う理由を付けて居住権を使い中学三年の二学期に元の母のすぐ下の妹である叔母の家に戻り無事都立高校へ入学したのです。やっと自分の意志が十五歳で叶ったのです。

もちろん、身勝手な親の子は身勝手!私も弟同然の従兄弟(今後は、弟と書きます。従兄弟が多いので)も、荒れるだけ荒れて遊び放題。小さな頃からなんでも何処でも二人で行かされ、叔母達も夜は、マージャン。私が中学生の頃からスナックをはじめ、飲みに行く毎日。しまいには、叔父と事故で怪我してる私と弟を置いて家出。弟の中学の卒業式の日にとうとうどこかへ行ってしまいました。弟は、その日を境に全くと言っていいほど人格が変わったのです。引き取られるとき小学二年生で「これからは、なんでも半分こで仲良くしようね。悲しいのは半分僕にくれていいよ。」と言っていた、あの優しかった少年は、どこかへ行ってしまったかのように。

 

〜母になる迷いと決断〜

その後は、私は父にアパートを借りてもらい一人暮らしの末、実家に帰り母は私を置いて行ってしまった事を亡くなるまで後悔しながら「二十歳になれば分かるから」とずっと言い続け、私の二十歳の誕生日の二十日後に旅立ちました。それは三十四年前の今日です。(五月二十日)母から学んだ事は、人は気力で生きられると言う事。これも母の迷いと決断なのかしら?今では、知るすべさえありません。

その一か月後に今33歳になる息子が私のお腹に宿り私の母の干支である寅の年の寅の月の寅の日の寅の刻にこの世に誕生しました。それを知ったのは、同じ時間に産まれたベッドが隣の女の子の祖父が、「おたくは、男の子で良かったですね。」と言いながら教えて下さいました。両親も叔父も叔母も迷い苦しみ決断し前進していたのでしょうが、私と弟は、迷路に迷い込み思春期から迷い決断しながら長いトンネルを走って来たカンジです。常に「なぜ?」ばかりです。未だに子供を置いて行ったり悪態を吐く叔父、叔母、の気持ちは理解出来兼ねますが、それがあったから子供に罪がないという事を学んだのかもしれません。

 

〜みんなの結末〜

父は、中国人の私より二つ下の人と再婚をしました。子供とは、二十歳違い腹違いの戸籍上の弟とは三十歳違います。縁はありませんがね。そして再婚から十年でガンになり、父は生きる決断をし、治療を頑張りましたが三年目肝臓ガンで旅立ちました。叔母は再婚相手が胃がんで亡くなったのち、東京へ帰ることなく自殺と言う決断をして、福井で暮らしていた家の庭の木で正座をするように亡くなってました。二人は六十八年の人生でした。その後、叔父は全身ガンで七十二歳で叔母を追うように亡くなりました。出て行ってからずっと待ち続けた人生でした。弟は離婚後一人で暮らしてましたが、私の母と同じ四十六歳の夏の暑い盛りに寂しく一人で、孤独死をしてしまいました。血圧が高いのに病院へ行かず、ひっそりと旅立ちました。暑い中十二日目に発見されました。それも一つの決断なのでしょうか?。あたしは、十年で医療ミスで肺に障害を抱えて大切な四人を見送り未だに肺が苦しいけど、頑張って治療をしたり、なぜ?と迷いながらも何とか生きて居ます。天国の応援団が見守ってくれてると思いながら。オペをする事も迷い決断したのは自分なので、悔やみきれずも孫の為にも前進あるのみですよね。人は、迷い決断しながら産まれてから、終わりを迎えるまでどう生きるか自分で見極めて、進んでいくしかないのですね。何度もいいますが本当になぜ?と迷ってばかりです。

 

〜令和、現在の想い〜

病、死、不安、裏切り、弱肉強食、お金、感情、愛情、孤独感、幸福感。生きている限りついてくる自然の摂理。それに迷い、これを全てポジティブに変化させることに意識を置いて、決断する。どうしても受け入れなくてはならないもの以外を良いものと考えるだけで人生観が、違ってくる事を身をもって体験しました。お正月に息子と二度目のハワイ旅行を息子夫妻にプレゼントされ、初めて二人での旅行へ行きました。一度目は息子の会社の三千人の招待旅行でしたので、二人ではありませんでした。今の嫁も彼女として来ましたので。そしてどう生きて行こうか迷ってましたので相当遅いですが、孫が出来たのと放射線治療もきっかけとなり、ひとり旅を平成最後に京都に決めて、充分ではないながらも日本に触れ、今後どう変わるか分からない時代を流れに任せながらも笑って前進出来るように、パワースポットで沢山の地球のエネルギーを感じ、帰って来ました。変化は、はっきりと感じましたが、確実に目に見えては来ていません。嵐山に降り立った瞬間でした。違う世界へタイムスリップをしたかのような風が変わるのをはっきりと感じたのです。十二年前から肺を切られて、大切な人達を見送り、殆ど道しか目に入ってなかったのです。しかし、目線が上になりました。景色や自分の背丈にある物に目線が変わりました。新緑、お花、景色、沢山の人々。なので迷っていた、今後どう生きるかと言う目的意識と老いを受け入れる、体制だけは整って来ました。これも決断ですね。いつの時でも迷いながらでも、一生懸命生きたからこそ心の葛藤があります。今後もそれは、変えられませんが、肥やしにして悔いなく笑って人生を終われるように、生きて行こうと医療ミスで人間不信になりながら、大切な人達を見送ったからこその決断です。

さてと、後何日か何年か何十年か分かりませんがひとりの初老として、母として祖母として、令和はどんな時代になりどう生きていこうか迷ってます。もう、幸せな決断と大変は小さな決断しか残っないと良いなと思いながらです。「迷い」と「決断」とは、とてもエネルギーを使うことと私は感じています。この世のパワーをもらいながら止まることなく歩き続けなければ。。。